「日本の農山村をどう再生するか」「人イヌにあう」

「日本の農山村をどう再生するか」

 三次や世羅や神石高原や安芸太田に行くと、いつも不思議に思うことがあった。この辺りは過疎化が著しいエリアである。しかしそもそも、何故減るほどの人口がかつていたのだろうか? これらのエリアは寒冷地で耕地も狭く、農業には向いているとは思えない。実際、刻んだたくあんを混ぜ込んだおにぎりや、割ったイカフライ*1を混ぜた焼きそば等、生鮮食品が入らない料理が郷土食として道の駅で売られていたりするので、実際農業生産には向かないのだろうと思う。どうしてこんな場所に、以前は多くの人が住んでいたのだろうか?

 この本は私の疑問に答えて、その先の答えまで見せてくれた。山村は1960年代まで、エネルギー源(木炭)の生産地として栄えていたらしい。1960-70年代にエネルギーが炭から石油に変わったことで地場産業を失い、過疎化が進んで行ったということらしい。その後、リゾート化や企業誘致で地元に産業を創生しようとするものの、環境破壊や不景気の影響で様々な問題を抱えるエリアが続出した。

 リゾート化による問題には、私の故郷の姿が重なった。私の故郷は東京近郊という地理的条件を背景に、古くから観光地として開発が進められた土地である。しかしコンセプトの迷走による美観の毀損や、今でいうところの観光公害の問題もあり、私は「観光を産業とする」ことにはずっと懐疑的で、未来を感じられなかった。

 本では日本における実際の再生成功例を紹介しながら、地元の資源を「維持可能なサイクルで」「住民主体で、住民に利益がある形で」活用する内発的開発の重要性を論じている。また、農山村の産業は3Kの第一次産業中心というイメージが強いが、若い世代は高学歴化しているので、高学歴者に魅力ある形態への転換の必要性も提唱していた。この辺はどうなんだろうね、とは正直思う。自分の故郷はまだまだ「郷に入っては郷に従え」「年長者の言うことを聞け」「女じゃ戦力にならん」という風潮が残っていて、自由にアイデアを提案しにくい土地柄なので、形態の転換はしづらい。広島の中山間地域はその辺どうなんだろう。この「住民主体性を重視する必要性」は、民主主義の本質にも迫る話で、2013年に出版された本だというのに全然古さを感じない、むしろ必要性を身にしみて感じる内容ばかりだった。

 

「人イヌにあう」

 動物行動学を提唱したローレンツが著した犬の本。犬について書いた「犬本」の中では、超有名な古典だろう。今となっては否定されている説もあるし、犬の意識や認知機能研究についてはもっと面白い本が沢山出ている。でも、ディンゴの子どもを押し付けられた雌犬の行動や、飼い犬が他の犬とやり取りをする際の様子など、犬の行動に関する繊細な観察記録にはつい引き込まれてしまう面白さがある。そして、何より面白いのは、およそ100年前のドイツの畜犬模様が伝わるエピソード。野性味のある犬を好んだというローレンツ自身の嗜好もあるのだろうけど、今の感覚で読むと随分荒っぽい飼い方をするという印象。寄生虫怖い……虫刺されイヤ……の軟弱者は憧れないし真似できない(する気もない)。

 そして、「飼い犬が死んで辛いからと次の犬を飼わないのは臆病者」という一節がささった。私は今飼っている犬が死んだらペットロスになるかもな、という思いがほぼ確信としてあり、しかし犬を見送る未来は確実に来る(そうでないと困る)ので、そのことについての漠然とした恐れはあった。ちょっと喝を入れられた気分。自分が飼える体力があるうちは、できるだけ犬と共に過ごしたいと思う。

 しかしこの本のタイトル、何故「人」と「イヌ」なのか。漢字かカタカナ、どちらかに統一させて欲しかった。気持ち悪くて仕方ないし、図書館OPACで本タイトルを検索した時に出て来なくて困った。

*1:いわゆるイカフライではなく、のしいかに味付け衣をつけて揚げたもの。油っぽくて硬い駄菓子のようなもの。