「復権の日月」

 1か月ほど前に長島愛生園に行く機会があり*1、慌てて事前学習のために数冊読んだ本の中の一冊。患者の権利闘争の記録本で、質量ともに結構なボリュームだった。愛生園に行くまでに読み終わらず、行った後にようやく読了した。

 戦後1943年に特効薬としてプロミンが登場、日本で導入されたのが1947年。1951年に癩(らい)予防法改正が発議され、1953年に全患隔離の継続を定めたらい予防法が成立する。プロミンの効果は歴史館の記述によると劇的な改善が見られたらしい。プロミンが入ってから6年経っているのに、何故当時の院長達が国会で隔離継続を主張したのかはよくわからなかった。自分の立場や権威が危うくなるのを恐れて? それとも、ハンセン病への激烈な差別が残る社会で患者が生きて行く難しさを考えてのパターナリズム? 建前でもかまわないから、どういう理由でこう主張したのか、院長達に訊いてみたかった。

 1970年に別の薬リファンピシンが開発され、1971年には多剤併用治療がほぼ確立し、ハンセン病は治る病気になっていたし、患者の発生数も極めて少なくなっていた。それでも、全患隔離を定めたらい予防法が廃止されたのは1996年で、治療法が確立して25年後ということになる。これは、患者側の「今廃止されても生活の目途が立たず困る」という都合もあったらしい。しかしそれにしても、国の放置っぷりがすごい。そもそも、全患隔離時代から放置っぷりは凄かった。病人として収容されたのに、生活のための労務や重病人の看護を軽症者が行わなければならなかったというのだからレベルが違う。家を建てるところから患者がやらなければならなかったというのだから、ハンセン病の戦前政策が収容隔離に重きを置き、療養は二の次だったというのがよくわかる。戦後になって、住居の改善とか、療養費の増額要求とか、医療職員の確保とか、就労支援事業とかは患者側の要求で始まったらしい。歴史館の資料を見ていると、時代の流れに合わせて何となく改善していったように見えたけど、あれらは患者側の運動闘争の結果勝ち取ったことらしい。待遇改善は要求しないとなされないんだなーとしみじみしたり、歴史館は「闘争勝利記念館」に名前を変える方が、待遇改善の背景がよくわかるんじゃないかと思ったり。

 しかし、社会と隔絶された施設で、どうして患者が権利主張運動を起こせたのか不思議に思う。そして、どうして精神障害者はこのような権利闘争展開にならなかったのか、あるいは上手く行かなかったのかも不思議に思う*2成人してから入所してくる患者がおり社会情勢を知っていたからなのか、病気の特性上思考障害が起こらなかったからなのか、思いを巡らせる。

  結核精神障害の日本史も知りたい。精神障害はいくつか概論書の心当たりがあるのでそのうち読んでみる。

 

*1:行った時の話はそのうち書く。

*2:日本の精神科医療の収容主義は有名で、現在でも入院期間の長さは世界でトップクラスである。Microsoft PowerPoint - 【資料2】最近の精神保健医療福祉施策の動向について (1214).pptx (mhlw.go.jp)