「白い病」

 「山椒魚戦争」、「R.U.R」で知られるカレル・チャペックの戯曲。思わず手に取った。

 COVID-19が、もっと醜悪な見た目に変わる感染症だったらどうだっただろう、と思うことがよくあった。「EDEN」に出てくるウイルス疾患のように見た目が変わる、しかも急速に変わるような病気だったら? 多分もっと差別は極端になっただろうし、パニックが起きていたかもしれない。「白い病」はそういう病だった。生きながら体が腐り、腐臭を放つようになる病気。若者はかからない病気。COVID-19が更に悪質になったような病気の症状に、奇妙な一致を見て不思議な気持ちになる。しかし施政者の振る舞いは理性的で、COVID-19流行下の日本それよりマシだった。「事実は小説よりも奇なり」を地で行かれてもな。

白い病 (岩波文庫)

白い病 (岩波文庫)

 
EDEN(1) (アフタヌーンコミックス)

EDEN(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

車のタイヤもパンクする

 いつものように車に乗って、走り出して数分で変な音がするようになった。振動もやたら来る。これはパンクだ、と思って行先変更、ディーラーのところへ向かう。やはりパンクしていた。タイヤがもう摩耗していて、パンク修理するより交換を勧めるとのこと。全部が摩耗しているわけだし、1本だけ交換してもバランスが悪くなるそうで、全交換と相成る。しめて7万円……。急な出費で懐も心的にもダメージである。

 今月「6カ月点検」を行ったばかりで、タイヤも見てもらったはずなのにパンクするとはどういうことなのか、またパンクに気づいた時はどうしたら良いのか*1、訊いてみた。パンクをしたらやはり乗っては駄目らしく、ちょっと乗ってもアウトらしい。ホイールが歪んだりするんだとか。重量が自転車よりも重い分だけ、致命傷になるのも早いのかしら。

*1:自転車乗りの経験から、パンクしたらそのまま乗らずに(走らせずに)修理をしないとダメージが広がることは知っていた。

前提が違う

タレントのチャーリー浜さん死去 「~じゃあーりませんか」で人気共同通信

 「~じゃあーりませんか」というギャグが流行語となり、人気を集めたタレントのチャーリー浜(ちゃーりーはま、本名西岡正雄=にしおか・まさお)さんが18日午後6時41分、呼吸不全と誤嚥性肺炎のため大阪市の病院で死去した。78歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。

 高校卒業後、作家花登筐が立ち上げた劇団「笑いの王国」に入り、芸を磨いた後、1962年に吉本新喜劇に入団。七三分けの髪形と黒縁眼鏡というスタイルで、キザな役を演じて人気を集めた。(後略)

 「役を演じ」って……え、チャーリー浜って俳優だったの? お笑い芸人なのかと思っていた。ちょっとびっくりして、生まれも育ちも大阪の同僚に訊いてみた。すると、やはりお笑い芸人というより、劇団員という位置づけだとのこと。「乳首ドリルの人と同じで、彼単体では出演しませんからねえ」と言う。いやいやいや、乳首ドリルって何。サラッと日常語のように出されても知らないし。と笑って返すと、意外そうに「あれ、知りません? 『やれるのかい、やれんのかい』ってやつ」と返される。いや、全然わからない。すると、私達の周囲にいた他の人達が「知ってます」と脇から入ってきた。え、乳首ドリルは一般教養の範囲にある知識なの?

 大阪より西に住んで早20年以上経つが、TVが無い生活を送って来たせいか全然知らない。私は関東圏の感覚のまま、時間が止まってしまっている。

連日仕事が終わらない

 年度始め。土日返上で仕事で、今週で三週間目に突入する……そろそろ休まないと体を壊しそう。YouTubeロマンポルシェ。を流しながら作業していると、「関連する動画リスト」に『歌いたくなるJ-POP』というのが挙がっていた。この中にロマンポルシェ。入ってんのかなあ。誰が歌うのかなあ。「親父のランジェリー」とかは良い曲だから歌いたくなるかなあ。でも今私は「珍・ポタージュ」が歌いたい。近畿地方のコロナ感染者がうなぎ上りに上昇し、大阪は今日一日で感染者数が1000人越えだとか。広島もジワジワと感染者が増えている。しかし「愛と平和の祭典」オリンピックの聖火リレーは続く。最近現実に狂気を感じるし、閉塞感も凄いし、「珍・ポタージュ」くらい歌わんとやってられない。「はじめまして! 不審者です!」もいい。「新島で死にたい」もいいなあ。……って、結構『歌いたくなるJ-POP』だなロマンポルシェ。


www.youtube.com

 

「犬たちの明治維新」

 幕末の偉人たちと犬の関係から、文明開化が日本の犬に与えた影響、あるいは犬文化(狆や犬の名前等)まで。時折牽強付会に感じる記述も出てくるが、まあ面白かった。読み応えがあったのは、西郷隆盛と犬の関係。西南戦争に何故犬を連れて行ったのか、中央政界を離れてからの西郷は自分と社会をどう捉えていたのか、一つの説として読むと面白い。「西郷の言動は推測し難い」という行が何度も出てきながら、筆者の推測が披露される。それはそれで成程と思わせるのだが、実はもっと異なるのではないかと思わされるところも面白かった。あと、狂犬病が文献のあちこちに登場するのが新鮮で何とも恐ろしかった。昔は狂犬病が実に身近だったのだな。

 いわゆる「和犬」の誕生にも触れるかと思っていたが、この辺は全く触れていなかった。最終章で天然記念物に指定された以外の和犬たちが生き残らなかったのは、戦争の供出が理由であると説明され、こんなところにまで戦争の影響があったのかと愕然とした。

文庫 犬たちの明治維新: ポチの誕生 (草思社文庫)
 

 

「復権の日月」

 1か月ほど前に長島愛生園に行く機会があり*1、慌てて事前学習のために数冊読んだ本の中の一冊。患者の権利闘争の記録本で、質量ともに結構なボリュームだった。愛生園に行くまでに読み終わらず、行った後にようやく読了した。

 戦後1943年に特効薬としてプロミンが登場、日本で導入されたのが1947年。1951年に癩(らい)予防法改正が発議され、1953年に全患隔離の継続を定めたらい予防法が成立する。プロミンの効果は歴史館の記述によると劇的な改善が見られたらしい。プロミンが入ってから6年経っているのに、何故当時の院長達が国会で隔離継続を主張したのかはよくわからなかった。自分の立場や権威が危うくなるのを恐れて? それとも、ハンセン病への激烈な差別が残る社会で患者が生きて行く難しさを考えてのパターナリズム? 建前でもかまわないから、どういう理由でこう主張したのか、院長達に訊いてみたかった。

 1970年に別の薬リファンピシンが開発され、1971年には多剤併用治療がほぼ確立し、ハンセン病は治る病気になっていたし、患者の発生数も極めて少なくなっていた。それでも、全患隔離を定めたらい予防法が廃止されたのは1996年で、治療法が確立して25年後ということになる。これは、患者側の「今廃止されても生活の目途が立たず困る」という都合もあったらしい。しかしそれにしても、国の放置っぷりがすごい。そもそも、全患隔離時代から放置っぷりは凄かった。病人として収容されたのに、生活のための労務や重病人の看護を軽症者が行わなければならなかったというのだからレベルが違う。家を建てるところから患者がやらなければならなかったというのだから、ハンセン病の戦前政策が収容隔離に重きを置き、療養は二の次だったというのがよくわかる。戦後になって、住居の改善とか、療養費の増額要求とか、医療職員の確保とか、就労支援事業とかは患者側の要求で始まったらしい。歴史館の資料を見ていると、時代の流れに合わせて何となく改善していったように見えたけど、あれらは患者側の運動闘争の結果勝ち取ったことらしい。待遇改善は要求しないとなされないんだなーとしみじみしたり、歴史館は「闘争勝利記念館」に名前を変える方が、待遇改善の背景がよくわかるんじゃないかと思ったり。

 しかし、社会と隔絶された施設で、どうして患者が権利主張運動を起こせたのか不思議に思う。そして、どうして精神障害者はこのような権利闘争展開にならなかったのか、あるいは上手く行かなかったのかも不思議に思う*2成人してから入所してくる患者がおり社会情勢を知っていたからなのか、病気の特性上思考障害が起こらなかったからなのか、思いを巡らせる。

  結核精神障害の日本史も知りたい。精神障害はいくつか概論書の心当たりがあるのでそのうち読んでみる。

 

*1:行った時の話はそのうち書く。

*2:日本の精神科医療の収容主義は有名で、現在でも入院期間の長さは世界でトップクラスである。Microsoft PowerPoint - 【資料2】最近の精神保健医療福祉施策の動向について (1214).pptx (mhlw.go.jp)