上野英信本2冊/追われゆく坑夫たち・地の底の笑い話

 上野英信は自身も筑豊地方の炭坑で働いていた人で、坑夫たちの生活などをルポルタージュしたのがこれら2冊の本。

追われゆく坑夫たち (岩波新書)

追われゆく坑夫たち (岩波新書)

地の底の笑い話 (岩波新書)

地の底の笑い話 (岩波新書)

 雇用側がいかにして労働者から労働力を搾取しまくったか・賃金を払わなかったか・労働環境の保全に手を抜いたかを強く糾弾する文章で書いている。時代背景もあると思うんだが、事実のみを淡々と書いている(ように見える・見せかける)近年の記事や文章に慣れきっている身にとって、このテの文章に対してどのような姿勢で臨めば良いものやら、戸惑いつつ読んだ。私は書き手の感情に感化されやすく、なかなかクールに読むことができないので、没頭して読まないように気をつけた結果、本の内容がほとんど内容が入ってこなかったという状態になる(ガックリ)。


 「追われゆく坑夫たち」では、戦後の石炭から石油へのエネルギー転換の中で、特に中小炭鉱の坑夫達*1が最悪の労働条件の中で働かされて心身ともに極限まで疲弊しきっていく様子、やがて働く場所を失うも新たな職場を求めて移住する体力・意欲・経済力がなく、呆然と土地に残されていく様子がメインに描かれる。
 一方で「地の底の笑い話」では、炭鉱労働者達から聞いた「笑い話*2」を著者の考察を交えつつ紹介し、主に戦前の炭坑労働者の文化や思考を明らかにしようとしている(ちょっと大げさ)。


 最初、「追われゆく坑夫たち」から読み始める→読んでる途中で本を紛失→仕方ないので「地の底の笑い話」を読み始める→「地の底の〜」読了→「追われゆく〜」発見、今度こそ読了、という流れで読んでいったのだが、変則的な読み方をしたことで理解が深まったような気がした。
 というのは、「地の底の〜」を読むと、ヤマからヤマへ転々と渡り歩く坑夫たちの生活様式・たくましさや抵抗の精神のようなものが浮き上がってくるのだが、対して「追われゆく〜」には命を繋ぐだけでやっとの坑夫たちの姿があるばかりだ。「地の底の〜」の登場人物たちと、「追われゆく〜」の登場人物たちには、30〜100年くらいの時間差が存在するはず。ということは数十年で急速に坑夫たちの生活様式は破壊され、坑夫たち自身の活力も失われていったということか。「追われゆく〜」で坑夫たちの状態を説明するため文章中にしばしば登場する「棄民」という言葉の意味がよくわかったように思った。


 以前別の炭鉱関係の本を読んでいた時、端島炭鉱閉山の際、島を離れる炭坑労働者が「土門拳上野英信のせいで、『炭鉱で働く=とんでもない悪環境で働かされる』ようなイメージがついてしまったが、そんなことはない」的内容のことを言っていたのを見たことがあるが、少なくとも戦後の炭鉱は、炭鉱の規模によって労働条件の落差が相当大きかったらしいと推察された*3


 土門拳上野英信によって表された筑豊は、荒廃しきった地域だったが、今はどのようになっているんだろう? また行ってみたくなった。以前は真冬の雨が降る寒い日に訪ねたので、今度は真夏の暑い日にでも。

*1:筑豊地方は中小炭鉱が物凄く多い地域だったそうな。

*2:著者の定義によれば、ここでいう笑い話とは坑夫たちが労働の合間に披露し合った話の総称で、単なるfunnyな話ということではないらしい。

*3:土門拳上野英信も対象としたのは筑豊の中小炭鉱の坑夫で、端島炭鉱は大規模炭鉱。