ゆら帝解散ショック真っ直中

 ビール飲みつつ本読みつつ、昨年末のライヴ以来繰り返し聴いている「ゆらゆら帝国のめまい」をかけて過ごした。ながら聴きにもかかわらず、やはり美しさや切なさで胸が一杯になって、遠い所に連れて行かれるような気分になる。聴き終わった後の感触は物凄く軽くて、何も残らない。「空洞です」になると、この「聴いている間は聴きこんでしまうけど、終わりの余韻は残らない」感はより顕著になる。この不思議な感覚は、湿った抒情性(大好きなんだけどね)低め+美しさの純度が高いせいなのかもしれない。

ゆらゆら帝国のめまい

ゆらゆら帝国のめまい

 このブログに自分が書いた、ゆらゆら帝国に関する過去の記事を読み返していて、自分は本当にゆらゆら帝国が好きだったんだなあとしみじみ思った。「好きな対象のどこが好きなのか・どんな風に好きなのか」を色々考えて歯切れが悪くなってしまう癖が私にはあるけど、過去の記事を読み返すとその癖があまり発現していない。臆面もなく「大好き」とか書いてるよ過去の私。うほー恥ずかしい。そういえば昨年末のゆらライヴの時も、嬉しくて嬉しくて「死んだはずの山のおじいさんです!」とか「ソフトに死んでいると思ったらロボットでした!」とかミニブログに書くイカレ具合だった。恥ずかしいぞ私。
 私が彼らの音を知ってから10年。悠久の時を変わらず泰然と過ごしていくバンドのように思っていたけど、そうではなかった。10年の間に、彼らは10年分変わったのだ。では私は? 先日先生から「あんたは時間が無限にあると思っている」とお叱りを受けたばかりのせいか、この10年の間に私は何が変わったか、何を獲得できたのか、少し考える。